190820-22-24 エフゲニー・オネーギン@まつもと市民芸術館 その3 オネーギン編

改めて言うまでもなく、今回松本での元々のタイトルロールは、現在この役ではトップクラスのマリウシュ・クヴィエチェン。
今の彼のステイタスならば、もう日本ではメジャーなオペラハウスの来日公演でしか聴けないと思っていましたが、せっかく来て下さるのならばと楽しみにしていました。

残念なことに公演の1ヶ月前ほど前に、怪我のため来日が不可能になったとのことで、ファンの方の落胆は計り知れないものがあったと思います。

そこで白羽の矢が立ったのがトルコ人のレヴァント・バキルチ。初めて名前を聞く方でしたけど、新たな出会いに期待しつつも
「もしかしたら、カバーの大西宇宙(おおにしたかおき)さんが1公演ぐらい歌う可能性があるかもね・・・」とも、漠然と思っていました。一日置きの日程はタイトルロールとタチアーナにとってはかなり厳しいでしょうし、中日の22日はもしかしたら・・などと思っていたのです。

そしてGP。大西さんが歌っている・・・とTL上が俄かにそわそわし出して、このまま本公演も・・的な雰囲気通り、初日は大西さんが担当することに。より一層興味が湧いてきました。

私は大西さんを聴くのは初めてでしたが(テレビで見たお正月のNHKニューイヤーコンサートでは歌われた曲が「真珠取り」のアリアだったので、聴き手の私に馴染みがなく^^;よくわからないままでした・・;)
硬質の声はロシア語とも親和性が高く、発音も違和感ないと感じ、この役に良く合っていると思いました。この役はこういう硬い声がいいのです。
ご本人が敬愛なさっている、ディミトリー・ホロストフスキー氏の色んな映像や音源(今回と同じMETでの映像のみならず)で、相当勉強したんだろうな…と感じました。

始めの方はまだ動きや表情が型にはまってぎこちないところもありましたけど
(多分不遜な感じを出そうとするあまり、胸を反らせすぎてバランスが悪く見える時があったり、なんとなく遠慮がちに見える女性への触り方とか(変な意味ではなく^^;アメリカでの生活が長い大西さんでも西洋人の域に達するには、まだまだ経験を積む余地がありそう〜〜(^〜^)とかね)

初日で相当のプレッシャーがあっただろうという中、難役を良くこなしたと思います。1幕より2幕、終盤に向けてギアが入ってきた感じ。この役をよく歌っているワールドクラスのバリトンでも、終幕のタチアーナとの応酬ではバテバテになる歌手も多いのに、そうはならなかっただけでもすごい。

もし、もう一度大西さんが歌えば、おそらく今日、まだ改善できるであろうと感じた所も相当修正できるだろうけどな・・と思いながら、22日はバキルチが歌うことに。この日、客席でちらっと大西さんをお見かけしたので「ああ今日はカバーに入らないのね」と思ってもいました(笑)
近くで見るとやっぱり大きいですねえ。特に上半身ががっちりなさってるわ〜と思った次第です。

バキルチはスリムですらっとしていて、ニヒルな感じで立ち居振る舞いも良いけど、やはり本調子ではなかったのか、音程を保つのがやっとという状態。声量面でもハラハラしました。今回の舞台は伽藍堂で音が拡散するタイプのセットだったのも、不利だったのかも。
しかしその必死な感じが、終幕のタチアーナへの懇願はプラスに働いた気がします。

けどやはり、本調子の時に聴いてみたかった。インタビューで話していたオネーギンという役に対する解釈も納得のいくものでしたし、急な代役でソリストの中では誰よりも早くに来日して稽古に勤しんでいたとのことですが、日本の夏の暑さにやられてしまったかな・・

そういう感じでしたので、ご一緒した方とも「土曜日はまた大西さんですかねえ〜?」と話していたんですが、その通りに。

運も実力のうちと言いますから、今回の巡り合わせも運の一つでしょう。
そういう意味でも大西さんはもちろん、実力も備えているけど、オネーギンの運を引き寄せる何かを持っているのだと思います。

そして最終日。初日よりも格段に良くなってました。舞台に出てきた瞬間から、こちらの思い込みだけではなくオネーギンとして違和感なく見えましたし、舞台さばきも声の鳴りもぐっと良く。初日に感じた胸の反り方の違和感も自然になり、別人のようでした。短期間でこれだけ修正できるというのも登り調子の証拠でしょう。

他の共演者とのケミストリーも上がったように感じました。この日の白眉はレンスキーとの決闘前の二重唱。ハーモニーが美しく決まってました。
中日の交代が、大西さん的には功を奏して休養充分だったのもプラスになったかなと。終幕のタチアーナとの応酬は、ネチャーエヴァの大熱演に引っ張られてたこともあり、ぐっときました。

カーテンコールではグレーミンのヴィノグラドフ始め、他の出演者から大きな拍手で労われていて、みんなで若い大西さんを盛り立ててやり切った感がひしひしと感じられました。
「終わり良ければすべて良し」大西さん、本当にお疲れ様でした!!!
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ところで私が鑑賞記書きにモタモタしている間に、大西さんご本人の素敵なインタビューがヤフーニュースに掲載されました。インタビュアーはジャーナリストの江川紹子さん。
(最終日に劇場の外で迷ってウロウロしている時に、どうやらグレーミン公爵に助けられたらしい・笑笑)
お人柄が伝わってくる良いインタビューだと思います。

「息の長い歌い手に」~松本の音楽祭《オネーギン》でオペラ・デビューした大西宇宙さんに聞く(江川紹子) – Yahoo!ニュース
松本の音楽祭で初めて日本人として主役を歌った大西宇宙さん。日本での堂々たるオペラデビューとなった。今注目の若手バリトン歌手に、《オネーギン》について、これまでの自身などについて聞いた

オネーギンという役についての解釈も、なるほど納得。彼のオネーギンを2度見て徹底的に嫌な男という印象は受けなかったんですが、彼の解釈にはとても共感できます。

今回、いつになくツイッターでも(劇場で耳にした会話でも)
「オネーギンはほんとクズ!」とか「厨二病」とかいう意見が目についた(耳に入ってきた)んですが
えええっ!皆さまそんなふうに思って見てるの!とビックリしました^^;

っていうか、今回の大西オネーギンにしろ、バキルチオネーギンにしろ、そんなに「嫌な奴感」は出てなかったでしょ!!
(強いて言えば1幕の最後で手紙を突き返したタチアーナに対して、当時のマナーとして腕を組ませて退場したところぐらい?でもあれだってニヒルでよかったと思うけど?)

で、確かにひどい男だからターニャはグレーミン公爵(今回はまた特別「いい人」オーラ出まくりの公爵だったしな〜)と結婚して正解だ!という解釈はありだけども、そう物事も人の気持ちも世の中も単純じゃない。

ニヒルで自虐的、ひと嫌いで、いつも斜に構えているけど、自分の情熱の持って行き場がないというか、シンから嫌なやつではないと思ってます。
確かに社交界の鼻つまみ者ではあるけれど、本当に困った奴ならば、3幕でグレーミン公爵があんな風に「やあ!オネーギン、久しぶりだな」みたいに歓待しますか?妻のタチアーナに対しても「親戚で友人のオネーギン君だよ」ときちんと紹介していますし。

もし、単に嫌な男としか見えないとしたら、それは役柄解釈に問題があると思うのです。

私は15年程前に、たまたま当時住んでいたアメリカの地方都市で原語上演をやった時に「オネーギン」を2回見ているんですが、その時の「ユージーン」は単に嫌な中年のいやらしいオヤジ。
肩を揺らしながらえっちらおっちら歩き、腹が出た典型的アメリカ人。タチヤーナが「一目見て、その陰鬱でニヒルな感じに惹かれた」とはとても言い難い、ロシアの貴族階級の男とは対極にある男でした。

《ゆじーの・にぇーぎん》アメリカ某地方劇場での、「エフゲニー・オネーギン」 – Valenciennes Traeumereien
行って来ました(^o^)丿1シーズン3、4演目を、2度上演するという形式を取っている、アメリカの地方都市によくあるオペラカンパニーですから、レベル的にはそれはそれは、もう最初から目をつぶらなくては…という思いでした。歌手もこういった、アメリカの地方で主に活躍中の人たちのようです。私としては、とりあえずこの好きな作品が、原語上演されるから、出かけてみようという気になったのです。まさに「ゆじーの・にぇーぎん」つまり、「ロシアのエフゲニー」ではなく、「アメリカのユージーン」という感じ。退廃的19世紀ロシアの哀愁とは程遠い、思い切りアメリカの西部劇!でした。舞台はオーソドックスな、そう、シカゴリリックの映像で見られる演出をもっとチープにしたような、いわゆる《古式ゆかしき演出》です。エフゲニーって、ニヒルで自虐的、ひと嫌いで、いつも斜に構えているけど、自分の情熱の持って行き場がないというか、シンから嫌なやつではないと思ってます。もし、単に嫌な男としか見えないとしたら、それは役柄解釈に問題があると思うし、少なくとも今までに見た映像の中では、そういう風に感じたことはありませんで…
《エフゲニー・オネーギン》 クリーブランドオペラ – Valenciennes Traeumereien
張り切ってチケット取ったのはいいけれど、日帰りも出来ないし、2週間前の地元での《ゆじーの・にぇーぎん》にすっかり懲りてしまったので、とっても億劫な気持ちで出かけてきました。結果は…まずまず。大当たり!とまでは行かなかったけれど、予想以上に良い演奏でした。面白いものでアメリカの地方都市でも、ちゃんとレベルに格差があるんですね。多少は舞台装置も垢抜けていたし、今回聴いてきた歌手達は、声だけだったらヨーロッパの地方劇場でも充分通用するレベルにあると感じました。歌手達の経歴をざっと見てみると、一人を除いてアメリカ国内のみでの活躍のようですが、タイトルロールは、シカゴリリックオペラのアーティスト養成所?出身で、メトにも《トゥーランドット》の大臣役などで出演経験があるとのことでした。やっぱり、アメリカではメトに出ることが、大きなステイタスとなっているのかもしれません。今回もオネーギンという男性の解釈には???だったし、(ただの「嫌なヤツ」というだけではないと思うんですが…ニヒルで厭世的…なーんて感覚は、アメリカ人にはなかなか理解し難いのでしょう…)肩を揺らしながら歩くその歩き方、何とか…

友人とも話していたのですが、オネーギンはロシア文字史的に「余計者」の系譜に連なります。
ラフマニノフのオペラ「アレコ」のタイトルロールもそうですし、文学にしろ音楽にしろ、ちょっとロシアものをかじれば、ロシア的感覚って体感的にわかるような気がするんですが

(色んな文献を分析して考察するのも面白いけど、なんというのか…頭で考えて、調べまくってこう!って答えを出すのではなく、もっと単純に・・・心にすっと入ってくる感覚が私は大事だと思うのよ)

まあ・・聴き手は千差万別。解釈もしかり。
だから色んなタイプの文学があり、音楽が存在するのですよね。

今でこそ映像も音源も、上演回数もうんと増えましたけど、私が20年近く前にオペラを見始めた頃は、まともな映像は数点しかありませんでしたし、西欧の香りをまとったそれらがこの作品の本来の魅力を伝えていたとはとても言い切れない。

METでロシア系、東欧系の歌手が活躍することにより、彼らが出演したライブビューイング映像のおかげで、随分この作品は身近になったことでしょう。
上述したアメリカの地方都市で、ローカル色バリバリの実演に接した身としては、METの3つの映像(ホロストフスキー、クヴィエチェン、マッティ)には、オペラ聴き始めの頃からこの作品と付き合ってきたものとしても、本当に感慨深い思いがあります。

本来松本で歌うはずだった2013年クヴィエチェンの俺様的オネーギンは、6年前の彼だからあの解釈で成り立っていたような気もしていて、もし、今の彼があの解釈で、松本で歌っていたらどういう上演になってたかな・・

2017年、ゆったりとした美声が魅力のマッティ(私けっこう好きなんですw)は、この役には声が柔らかすぎてちょっと違う気がする。グレーミンよりも貫禄ありすぎて、オネーギンにはちとトウが立ったかなぁとも…
(2009年ぐらいのザルツブルグのは演出がイマイチだし・・難しい)

多面的で複雑なキャラクターを極限まで体現していたのは、やはり2007年のディミトリー・ホロストフスキーかと。彼がMETその他で素晴らしい映像、音源を残してくださっていることは、これから先も若い歌手さんたちの中に、確実に根付いていくと思うし、それは私たち聴き手にとっても幸せなことだと思います。

そして今回、ワールドクラスの共演者やファビオ・ルイージという現代最高の指揮者とオネーギンデビューを果たした・・・ということは、大西さんのキャリア的にも非常に大きな意味を持つことでしょう。
これから、オファーが増えるといいな、と思います。場数をこなすことによって、舞台上での仕草や違和感は段々とこなれていくと思いますし。

何れにせよ、彼にとっては忘れがたい舞台になったでしょうし、
大西さんの中に、ホロさんが遺したオネーギンの息吹が感じられた・・それを松本で確認できたことが、一観客としてとても嬉しかったです。

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