50代半ばで10年日記を選んだ理由
2016年から続いている、ただそれだけの事実
2016年から、B5サイズの5年日記を使い始めました。
今年の年末で、それを2冊回し終えることになります。
特別な決意があったわけでも、強い意志があったわけでもありません。
気がついたら、続いていました。
それだけのことです。
使ってきたのは、2冊とも同じ石原ダイアリー。
日記帳としては、正直とても地味です。装丁に華やかさがあるわけでもなく、
「書くと人生が変わる」などと煽ってくることもありません。
それでも、「結果として続いた」という事実が、私にとってはいちばん正直な評価です。

一度は、別の日記に変えようかと思ったこと
実は、5年日記を一周した2021年、別の会社のものに変えようかな、と考えたことがありました。
世の中には、もっとおしゃれな日記帳もありますし、使っていて気分が上がりそうなものも、いくらでもあります。
けれど、そのとき踏みとどまった理由は、この会社のコンセプトでした。
とても静かで、控えめな言葉です。
でも、日記帳に特化した会社が、これを一貫して掲げているところに、私は妙に納得してしまいました。
日記は、その場の気分を盛り上げるためのものではなく、時間を経て、意味を持つものなのだと。
(2016年に5年日記を導入した時の話は、こちらに残しています:「5年日記」)
私にとって日記は「感情を書く場所」ではない
私にとって、日記は感情のはけ口というわけではありません。
嬉しかったことを細かく書き残すわけでもなく、落ち込んだ気持ちを吐き出す場所でもない。
何も書かない日も、当然のようにあります。
毎日びっしり書く必要はないし、読み返して感動することも、正直ほとんどありません。記憶の確認にはなりますが。
それでも、書いた日と書かなかった日が、同じ場所に、同じように並んで残っている。
それが、私にはちょうどよかったのだと思います。
5年日記を2冊使ってわかったこと
5年日記を2冊使ってみて、ひとつ気づいたことがあります。
同じ季節になると、似たようなことを考えている。
同じような体調のことを書き、同じような迷いを抱いている。
けれど、悩みの「重さ」や「質」は、確実に変わっていました。
解決したわけではなくても、ちゃんと通過している。
あとから読み返してみると、私が書いてきたのは感情そのものではなく、
「通過記録」だったのかもしれません。
2026年からは10年日記を選んだ理由
① 人生のスパンが変わった
来年、2026年からは、B4サイズの10年日記に切り替えることにしました。
50代半ばになり、「10年後」が遠い未来ではなくなりました。
夢や計画というよりも、10年スパンは現実的な射程圏内に入ってきた。
家族のこと、仕事のこと、住む場所、体力のこと。長く見ていかなければならないことが、確実に増えました。
情報量を増やしたかったわけではありません。
物理的なサイズも大きくすることにより生まれる、より大きな余白で、日々を受け止めたくなった、という感覚です。
② 一日4行という行数
10年日記は、一日4行。
それで十分だと思っています。
この年齢になると、言葉をたくさん書くことが目的ではなくなってきました。
要点だけ、事実だけ。あるいは「今日はそれだけだった」という記録でもいい。
書く量が限られているからこそ、何を書くか、何を書かないかが自然に整理されます。

実は、他の選択肢は最初から考えていなかった
10年日記に切り替えようと決めたとき、実は、他の会社の選択肢はほとんど考えませんでした。
「10年日記にするなら、ああ、石原の10年日記にするか」
本当にそれだけで、迷う時間も、比較検討もなく、息を吸うように、自然にポチっていました(笑)。
改めて考えてみると、不思議なものです。
2冊使い切ったから信頼している、というのもありますが、
それ以上に、「日記とはこういうもの」という自分の中の基準が、すでにできていたのだと思います。
新しいものに替えたい気持ちが、まったく湧かなかった。
それ自体が、この日記帳との関係をよく表している気がします。
足りないときは、はみ出していいという設計
石原出版社の日記帳には4行(5年ダイアリーでは5行)で足りないときのために、巻末には「続き」を書くスペースも十分に用意されています。
感情の赴くままに、少し長く書きたい日もあれば、逆に、何も書かない日が続くこともあります。
けれど、そのどちらも「間違い」にはならない。
決められた行数に収めることが目的ではなく、必要ならはみ出してもいいし、何も書かなくても構わない。
そういう自由さが、最初から設計として組み込まれている。
それが、私がこの日記帳を「道具」として信頼している理由です。
③ とても現実的な話
もうひとつ、とても単純で現実的な理由もあります。
日記帳は、この10年で確実に値上がりしました。
5年日記を2冊買うより、10年日記を1冊。続ける前提で考えるなら、そのほうが無理がありません。
習慣を続けるためには、思想よりも現実が大事なこともあります。
50代になると、そういう判断を、ごく自然に受け入れられるようになるのだと思います。
巻末のエンディングノートに感じた、ちょうどいい距離感
10年日記には、巻末に簡易的なエンディングノートが付いています。これは5年日記にはついていません。
今すぐ何かを書くつもりはありません。
けれど、「いずれ考えるもの」が最初から用意されていることに、不思議な安心感を覚えました。
50代中盤という年齢に、とても無理のない距離感だと感じています。もし私に万が一のことがあった時には、この日記帳のこのページを見てね、と家族にも予め伝えることも可能です。

日記は「こだわり」ではなく「生活の道具」
紙の質、レイアウト、余白の取り方。
どれも主張しすぎず、書くことを強制しない。
こだわりというより、生活の邪魔をしない道具。
私にとって5年日記は、ずっとそういう存在でした。その流れで10年日記に移行する、という思考に至ったというだけのことです。
10年後の自分へ、説明しなくていい記録を残す
日記は必ずしも読み返すために書いているわけではありません。
けれど、残っているという事実には、どこか安心感があります。1冊目の5年日記も時折引き出しから取り出して
夫と「○年前の今日、こんなこと書いてるよ!!!」って確認し合えるのは、確かな事実であり、面白さでもあります。
10年後の自分が、これをどう読むのかはわかりません。
もしかしたら、ほとんど開かないかもしれない。
それでもいいと思っています。
そして、手帳にも一つの答えが
実は、来年の手帳もこの流れで B4サイズのルーズリーフを選びました。
持ち歩きやすさよりも、俯瞰できることを優先したものです。
日記も、手帳も、経理のメモも、
すべて「机に戻ってきたときに整う」ことを基準に考えるようになりました。
どのメーカーがいいか、どんな機能があるかよりも、
どこで、どう使うかを先に決めてしまった方が、
私の場合はずっと楽だったようです。
そんなわけで、2026年からはちょっと「大きな」アナログに書き付けていくことになります。
今後10年が、すーっごく、楽しみです✨
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